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神の安息に入るために

こんにちわ~

今日もみことばの分かち合いをしますね。



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ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
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前回、「神の安息」ということについて書きましたが、この「神の安息」、それは私たちに与えられている恵みです。

そして、究極的には、将来、私たちが天に上げられ、イエス様のもとに行った時に与えられ、そこは神様の平和で満ちていて、充足した安息生活が約束されています。

それは、神様が6日間で天地を創造され、7日目に休まれたように、この地上生涯で罪と戦ってきた者に、神様の安息が天国で用意されているんです。


このヘブル人への手紙の著者は、その恵みが約束されているから、「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか」って言われたんです。

「あの不従順の例」っていうのは、せっかくエジプトから脱出したイスラエルの民が神様に対して不従順になり、罪を犯したということです。



このみことばを味わいながら、クリスチャンになり、神様の安息の恵みの中に生かされていますが、でも、そこに罪が入り込むと、その安息がすーっと薄れてしまうっていう経験をします。

でも、別に安息が消えたっていうことじゃなくて、その時って、ぼくの心が閉じて、神様の安息を自分の心から閉め出したような状態なんです、そういう時って。

だからね、この箇所、本当にそうだなぁって思わされるんです。



じゃぁ、そのためにはどうするかっていうと、もちろん罪から離れるということなんだけど、その判断はみことばによりますよね。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいおrな考えやはかりごとを判別することができます

みことばを味わい、学び、みことばの光を自分の内面に照らさせ、みことばに信頼し、みことばを土台に据えて生きるっていうことなんです。



造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

そうなんですよね。私たちは将来、神様の前に立たされます。

その時、私たちは丸裸の状態で、すべてがさらけ出され、何も隠されていない状態です。

その状態で、神様の前に出て、弁明することになるんです。


でもね、イエス様の十字架と復活の福音を信じ受け入れ、そこに信頼を置き、信仰生活をこの地上で全うしたなら、「神の安息」に入れるんです。

これがクリスチャンの希望なんですよね。


でね、ここまで言ってなんなんだけれど、こういうことを言うと、「神様のために~!」って一生懸命に奉仕したり、神様に喜ばれるために努力する人がいますが、ごめんなさい、それって違うと思うんです。

だってね、そうやって努力しても、神様はお喜びにはならないです。

神様が求めておられることは、そういう自分の力で神様を喜ばせようとする生き方から、神様に信頼し、みことばを味わい、罪から離れ、神様に依り頼む信仰生活にシフトすることなんです。

ぼくたちの内には聖霊がおられます。聖霊は神様が悲しまれることを教えてくださいます。
その聖霊の内なる声に敏感になること、そしてみことばによって日々新しくしていただくことです。


神様に信頼し、みことばに従う歩み、していきましょうね。

でわでわ~


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