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自分の本当の姿を知った今。。。

こんにちわ~ 

今日もみことばの分かち合いをしますね。

今日もヨブ記です。




ヨブ記、好きな人、苦手な人、いろんな人がいると思います。

でもね、ヨブ記を味わっていて、すごく感じるのは、信仰の根本が探られるというか、取り扱われるなっていうこと。

そして自分と神様との関係性が変えられていきます。

そういう意味でも避けてはいけない大切な書なんだなって思います。




でね、今日は42章、ヨブの悔い改めの箇所を味わいました。


ヨブ記42:1~6
ヨブは【主】に答えて言った。

あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

「これは何者か。知識もないのに神の経綸(けいりん)を隠そうとするとは。」

そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を越えた驚くべき御業をあげつらっておりました。

「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」

あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。



これがヨブの悔い改めのことばです。

ヨブは、自分は何も知らないし、何もすることが出来ない小さな小さな存在だということを、神様が問われた質問を通して痛感し、今、心からの悔い改めに導かれています。



神様は「これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは」とおっしゃいましたが、まさにこれ、ヨブのことです。

神様の偉大さ、その権威に満ちたお方、愛深さ、何一つ、ヨブの理解を遙かに超えています。

とてもじゃないけど、理解することなんて不可能です。

でも、ヨブは神様に対して、神様の御心も知らずに、神様に文句を言い続けてきました。

今、神様を前にして、ヨブはもはやなんと愚かな行為をしてしまったのだろうという思いでいっぱいで、神様の赦しを頂くしか他にありません。




ヨブは5~6節でこう締めくくっています。


あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。



ヨブは「今、この目であなたを仰ぎ見ます」って言ってますが、これ、比喩、ビジュアル的にわかるよう、こういう表現をしているんであって、実際バーンと神様がヨブに現れ、神様を見たー!っていうことじゃないですよ。

人間が神様を見て、生きていることなど出来ません。それほど神様は聖いんです。



でも、ヨブは神様と直接話し、神様を体験しました。

そして、もはや自分の無知さ、そして偉そうに知ったかぶりを語り、神様を責めるような言葉を発した愚かさ、その傲慢さを深く悔い改めているんです。




ヨブはこの時を境に変えられました。

彼の信仰はがらっと変わったんでしょうね。



あぁ、自分はどうなんだろうって思わされます。

自分の無知さを痛感するし、なんかヨブとおんなじだなぁって思わされます。



でもね、だからこそ、イエス様の十字架と復活の恵みの大きさを実感するんです。

神様の愛の前に圧倒されるし、こんな自分を愛してくださり、受け入れてくださっているその恵み深さの前にただただ感謝としか言いようがありません。




サタンの攻撃は相変わらず、でもぼくらクリスチャンはイエス様がおられます。

イエス様は今、天で大祭司として執り成し祈り続けてくださっています。

そして、天のお父様にぼくたちのことを訴えているサタンに対して、最高の弁護者であられるイエス様が弁護してくださっています。



だから、大胆に天のお父様の御前に出ることが出来るし、「お父様」って心を込めてお祈りも出来ます。

これが今のぼくたちのスタンスなんですよね。



自分は何者でもないことを認めること、そしてヨブと同じで、何も知らないということを受け入れること、これが傲慢な態度から解放される鍵なんですよね。

そして、へりくだって、神様のご計画の深さ、その確かさに心注ぎ、信頼する、つまり主の御手の中に留まり、安息すること、これが真のクリスチャンライフなんだなぁって、このヨブ記を味わいながら思わされています。




試練は辛いです。苦しいです。「なんで?!」って思っちゃうこともあります。

でも、それは目で見えるところだけで、舞台裏を知らないから苦しいんです。

でも、その舞台裏で、神様はそのことに対する御心を持たれておられ、クリスチャンがそのことを理解し、主を見上げ、「なんで」信仰から、「信頼」信仰へ心の目をシフトすることを願っておられます。




ヨブ記を味わいながら、ずっと詩篇23篇、有名な箇所なんですが、この中の5節がずっと心にありました。


わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。



神様はわたしたちに豊かな食卓を整えてくださり、頭に香油を注いでくださるお方。

でもそれは、豊かな時、満足している時、成功している時、問題がなく平穏な暮らしをしている時だけじゃないんです。

ダビデは歌ってますね、「わたしを苦しめる者を前にしても」って。

そう、試練の中、苦しみの中、最悪の状況のそのただ中で食卓を整え、香油を注いでくださるお方、これが神様のなさる方法なんです。



これ、問題だけを見ている時には気づかないですよね。

結果、「なんで」の祈りになっちゃいます。



でもね、神様は状況に支配されないお方、どんな最悪な状況であっても、死を前にしたとしても、そのど真ん中で食事を整え、香油で満たしてくださっているお方なんです。

だから、その苦しみのただ中で主を見上げるなら、たとえ状況は変化しなくても、心は平安になり、結果、「わたしの杯は溢れています」っていう告白へとつながります。



自分自身もこうやって書きながら、ほんと、そうだなぁって思わされています。

ご一緒に「なんで」の祈りを止めにして、いつもイエス様を見上げ、イエス様の優しい御手の中に留まる安息生活を送りましょうね。



祝福を祈ります。。。

キリストの愛を込めて。。。。


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