こんにちわ~
今日は穏やかな晴れ、とっても気持ちのいい一日でした。
富士山は薄らですが、波は穏やかだし、浜辺では親子連れやカップルなどがいて、凧揚げをしてたり、裸足になって楽しんでいる人がいっぱいいました。
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さてさて、今回もみことばの分かち合いをしますね。
今日はマタイの福音書26章、前回の続きです。
そしてイスカリオテ・ユダについてです。
今回はマタイの福音書26章17~25節です。
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さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。
「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。
イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。
『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」
弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。
夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。
皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。
あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」
弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。
イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。
人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。
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イエス様による過越の食事 その1
この箇所、よく「最後の晩餐」と言われている箇所です。
でも、実際には最後の晩餐では無く、ユダヤ人が食べる過越の食事をイエス様は弟子たちとやっていたんです。
過越の食事の順序その1
このイエス様による過越の食事の箇所、この読者であるユダヤ人の人たちにはわかるんですが、異文化であり、時代も違う異邦人である私たちには、この過越の食事について、全然わかんないというのが実際です。
そこで、このみことばを味わう前に、過越の食事の順序について分かち合いますね。
1、第一の杯
過越の食事が始まると、まず第一の杯が配られます。
この杯は「感謝の杯」と呼ばれます。
2、水の入った鉢とタオルを持って回り、食卓に着いている人たちの指を洗い、タオルで拭く
次に、過越の食事を主催する家の母親か娘が水の入った鉢とタオルを持って、そこにいる人たちの回りを回ります。
食事に着いた人たちは、その鉢に入った水で指を洗い、タオルでその濡れた指を拭きます。
この時は、イエス様がこの母親か娘のする行為を自らなさいました。
しかも、弟子たちの指ではなく、足を洗われたんです。
3、第二の杯
指を洗い終わると、次に第二の杯が配れます。
これを「裁きの杯」と呼びます。
でも、聖書はこの「裁きの杯」については書かれていません。
福音書の読者である当時のユダヤ人の人たちは、そのことをよく知っていたので、書く必要も感じられず、省かれたのでしょう。
4、カルパスを食べる
この「裁きの杯」を飲み終えると、次にカルパスと呼ばれるパセリを塩水に浸して食べます。
パセリの緑色は、若さの象徴です。
つまり、この行為は、「イスラエルがまだ若い国であったとき、神は彼らに紅海を渡らせ、彼らをエジプトから救われた」ということを象徴的に現しているのです。
今回はここまで、また次回に過越の食事の順序の続き、5番目以降の内容を分かち合いますね。
裏切りの予告
さてさて、聖書の箇所の内容に入りますね。
イエス様と弟子たちが食事をしているときに、イエス様は突然「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」って言われました。
イエス様はユダが裏切ること、もうお見通しで、こう言われたんですね。
イエスと一緒に手を鉢に浸した者
イエス様はここで「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」って言われました。
これ、ずーっと不思議だったんです。
だって、イエス様と一緒に手を鉢に浸した人って、周りの弟子たちにバレバレじゃんってね。
でもね、この鉢って何のことなのかも、全然わかってなかったし、まるでイエス様とユダだけが同じ鉢に手を入れたのかなって、それくらいしかわかんなかったんです。
でも、実際は全然違ったんですね。
この行為って、上の過越の食事の順序の4番目の行為だったんです。
過越の食事の知識が無いとわかんないし、誤解して間違った理解になっちゃいますね。
この時、カルパスっていうパセリを塩水に浸して食べるんだけど、この塩水を入れた鉢は、数人に一つの割合で置かれていたんです。
イエス様の隣はユダでした。だから隣同士に座っていたので、しかも他にもカルパスを浸した人もいたのでしょうし、自然な流れだったので、他の弟子たちにはわかんなかったんです。
イエスとユダとの密談
イエス様とユダは隣同士です。
だからユダはおそらく小声でイエス様に「まさか私ではないでしょう」と話しました。
この時の過越の食事の席順がわかんないと、これまた正しい理解が出来ませんね。
ぼくはこれも、そんなイエス様とユダとの会話、これじゃバレバレだぁって思ってました。
イエス様は最後の最後までユダを信じ、愛し続けました。
だいたい隣同士っていうのも、他の弟子たちにわからないようにイエス様に悔い改めることが出来るようにっていう配慮を感じられます。
イエス様はなんと優しい愛に溢れたお方なんでしょうね。
でもね、そんなユダの言葉は「まさか私ではないでしょう」です。
イエス様はどれだけそれを聞いて悲しまれたことでしょう。。。
イエス様は言われました、「いや、そうだ」
このことば、ほんと、重いですね。
適用:悔い改めを待ち続けるイエス様
イエス様はユダの悔い改めを最後の最後まで待たれました。
もちろん、ユダが悔い改めてイエス様を売り渡すことを止めても、イエス様は過越の祭りの日に十字架で死なれます。
イエス様は「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます」って言われています。
神様のご計画は絶対に変わることはないし、失敗など論外、絶対にないのです。
でもね、ユダへのイエス様の愛と悲しみの深さを思うと、本当に心が痛みます。
そして、同じようにぼくたちに対しても、イエス様は愛の視線で見つめ続けておられるんです。
ぼくたちがイエス様の愛に応答することを、そしてイエス様に信頼し、悔い改め、キリストの弟子としてイエス様に服従することを。
そして、それが一番の幸せであり、喜びなんです。
お互いに主の愛と恵みに依りすがり、心開いてイエス様にお任せし、従っていく歩みをしていきましょうね。
じゃぁね
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最終更新日 : 2018-01-20