こんにちわ~
今回は前回の続き、大事な箇所の分かち合いをすることが出来なかったので、それをします。
ヨハネ15:5~6わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしの内にとどまっており、わたしがその人の内にとどまっているならば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしの内にとどまっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ込まれて焼かれる。
人がわたしの内にとどまっており、わたしがその人の内にとどまっているならば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
私たちがイエス様の内にとどまること、更にイエス様も私たちの内にとどまっている状態、これが豊かな実を結ぶことだって、ここでイエス様はおっしゃっています。
ヨハネ14章20節で、イエス様はこう言われました。
かの日には、わたしが父の内におおり、あなたがたがわたしの内におり、わたしがあなたがたの内にいることを、あなたがたは知るであろう。
この15章5節のみことば、「人がわたしの内にとどまっており、わたしがその人の内にとどまっているならば」っていうみことば、まさにこの14章20節のみことばの状態ですよね。
私たちはイエス様の内にとどまる。そしてイエス様が私たちの内にお住まいにり、とどまっていてくださる、まさにこの状態です。
それって頑張ってすることじゃないですよね。
だってね、5節の終わりにこうあります。
わたしを離れては、何もできないからである。
そうなんです、イエス様を離れては何も出来ないんです。
だってね、冷静に考えてみてください。
ぶどうの枝って、より多く養分が回ってくるようにがんばってますか?
努力して、大きくて甘い実を成らせようと、枝は努力してますか?
ぶどうの木のために!ってがんばってますか?
何にもしてないですよね。
努力するのは枝じゃなくて、農夫です。
農夫は誰ですか?そう、父なる神様です。
父なる神様が丹精込めて育ててくださっているんです。
落ち込んだり、悲しい思いになり、土の中に埋まってしまっているような状態の時は、優しい御手で持ち上げて、愛の光を、優しい命の風が当たるようにしてくださる。
こうやって豊かな実を実らせることとなるんです。
ぼくたちはイエス様の内にとどまること、ただそれだけなんです。
ほんと、力を抜いて、イエス様の内にとどまり、父なる神様に育てていただきましょうね。
その姿って、小さな小さな子どもがパパに抱っこ~~~って甘えている姿そのものです。
大好きなパパに信頼しきって、抱っこしてもらって甘えているあの姿、まさにこれです。
子どもはパパに気に入られようと努力、してないですよね。
それはパパを信じてるし、信頼してるから。
ぼくたちも同じ。イエス様の内にとどまり、その優しい愛の御手の中で甘えればいいんです。
ぼくたちがイエス様の内にとどまるとき、イエス様もぼくたちの内に住んでいてくださっている。
これがぼくたちとイエス様との愛の関係です。
さぁ、6節です。
またまた恐怖の箇所に入りました。
わたしの内にとどまっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれる。
このみことばも恐ろしいですよね。
だって、イエス様の内にとどまっていなかったら、枝のように投げ捨てられて枯れちゃう。そしてなんと火に投げ入れられて焼かれちゃうんです!
どうしよう。。。ちゃんとイエス様の内に留まってなかったら。。。
「火に投げ入れられて焼かれる」っていうことは、地獄行きかぁ。
うーん、ちゃんとイエス様の内にとどまんなきゃ!!!
そうですよね、これを文字通りに解釈したら、そうなっちゃいますよね。
そして、残念ながら、この箇所を使って、イエス様の内にとどまらなきゃ,せっかく救われたのに、その救いが失っちゃいますよ!って言う人もいます。
じゃぁ、この箇所、どういうふうに理解すればいいんでしょう。
この箇所、鍵となることばがあります。それは「火に投げ入れられて焼かれる」ということばです。
「火に投げ入れられる」ということば、聖書の他の箇所ではどういうふうにして使っているのかです。
第一コリント3章11~15節にはこう書かれています。
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、焼きつきてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
この箇所は、「キリストの御座の裁き」といって、信者の受ける裁きです。
でも、この裁きは地獄に行くかどうかの裁きではありません。なぜなら、一度救われたら、もう救いを失うことはないからです。
「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」ってありますよね。
この裁きは、報償の裁きです。
イエス様以外の土台の上に何かを築き上げた人、自分の栄光だとか、まさにイエス様の内にとどまらず、自分の何かで達成したものです。
それらは火で焼かれるのです。
でも、その信者自身は、火の中をくぐり抜けて来た者のようにして、救いを受けるのです。
その姿は惨めでしょうね。だって、火の中をくぐり抜けて来た者のような姿ですからね。
そして、ある人は地上で生きていた時には「先生、先生」ともてはやされ、大教会を作り上げ、人々に影響を与えたような人でしょう。。。
イエス様がここで言われている「わたしの内にとどまっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れ、集められ、火に投げ入れられて焼かれる」というのは、このキリストの御座の裁きの時のことを言われているんです。
だから、このみことばをもって救いが失われる可能性があるなどということは絶対にないんです。
それは、サタンの偽りです。
サタンは元天使長なので、ものすごく頭がいいです。そして実はサタンもみことばを知っているんです。
だから、サタンはみことばを使って誘惑してきます。
でも、これを読んでご理解頂けたことと思いますが、それは全部嘘、デマです。
そういう嘘に耳を貸してはいけません。
そして、私たちは安心してイエス様の中にとどまるんです。
そこにこそ自由があり、「わたしの平和」と言われたイエス様の平和で、平安で満ちているんです。
ハレルヤ!
祝福を祈ります。
キリストの愛を込めて。。。。
でわでわ~(´ー`)/~~
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最終更新日 : 2016-07-13