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キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

みのみの

いつも喜んでいられる秘訣

こんにちわ

今朝からずーーっと思い巡らしていたことがあり、そのことを分かち合いますね。

みことばの分かち合いです。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
いつも主にあって喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。
主は近いのです。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
~ピリピ4:4~7~
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

いつも喜びなさい

パウロはピリピの教会の兄弟姉妹に「いつも主にあって喜びなさい」って言っています。

でもね、この時のパウロって、とてもじゃないけど、喜べるような状況じゃないんです。

っていうのは、パウロはこの手紙を書いている場所は、どっかリゾート地とかじゃないです。

幸せな時でも、絶好調な時でもないです。

獄中、つまり牢屋の中です。
洞窟の一番奥の部屋で、光も入らないし、しかも足には足かせをはめられ、自由も奪われていました。

そして、鞭打たれ、体中傷だらけでぼろぼろ。。。

きっと痛みと苦しさで息も絶え絶えだったんだろうなって思います。

とてもじゃないけど、喜べるような状況じゃないですよね。

そういう中で、パウロは「喜びなさい」って、ピリピの教会の人たちを励ましてるんです。


この箇所を味わいながら、ずーっと「喜び」っていうことについて思い巡らしています。

パウロは牢獄で、体の痛みに苦しみながら、そして不条理な状況においやられている中、愚痴ることもなく、泣くこともなく、喜んでいたんです。

だって、使徒の働きを見ると、パウロはシラスと賛美してたっていうことが書かれているんです。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれを聞き入っていた。
~使徒16:25~
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

喜ぶことって、状況とかと全然関係ないんですよね。


主にあって喜びなさい

「主にあって喜びなさい」ってパウロは言っています。

どんな状況でも喜べる秘訣、それは「主にあって」です。

ぼくたちは目の前の状況を見て、落ち込んだり、不安になったり、愚痴ったりします。

でもね、パウロは明日死刑になるかもしれない、いったいどうなるのか、そういう緊迫した状況の中で、真夜中、主を礼拝していたんです。

彼は、目の前の状況じゃなく、イエス様を見つめていたんですよね。

彼の目は、いつもイエス様を見つめ、内におられる聖霊様に励まされながら、この状況の中でも主を心から礼拝し、喜ぶことが出来たんです。


主は近い

パウロは「主は近いんです」って言ってます。

これはもちろん、イエス様が再び来られる日は近いっていう意味もあると思います。

でもね、それと同時に文字通りに、主は私たちの極近くにおられるんだっていう意味でもあると思うんです。

パウロはコロサイ人への手紙1章27節でこう言っています。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

イエス様は私たちの内に住んでおられるんです。

ね、ほんと、「主は近い」ですよね。


イエス様がうちにおられ、すべてを知っていてくださっている

イエス様はぼくらの内におられます。

そして、ぼくたちの何もかも、そう、いいことも悪いことも全部知っておられます。

心の奥底にあり、人にはぜったい知られたくないことも何もかも。

イエス様から隠し通せることなど、なんにもないし、不可能です。

でも、イエス様は決して私たちを責め立てるようなことはしないし、見捨てるようなこともしません。

それこそ、家族間でも、夫婦間でも、だれにも知られたくないこと、それこそ墓場まで隠して持って行きたいって思ってることを知った上でです。

だから、そうなんですよね、思い煩う必要なんて何一つないんですよね。

聖書は何度も何度も「恐れるな」って言っていますしね。


何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

イエス様に何もかも知っていただける恵み、そしてそれを全部優しく受けとめてくださるお方、それがイエス様です。

イエス様に知られている、これは本当に大きな大きな喜びです。

まさにすべての理解を超えた神の平安、そのものですよね。

この神の平安が私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださるんです。

ハレルヤ!

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
いつも喜んでいなさい。
たえず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
第一テサロニケ5:16~18
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

ずーっとこの賛美が頭の中でぐるぐるぐるぐるリピートし、無意識に口ずさんでいました。

パウロが命がけで、時空を越えて、今「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言うよ、何度でも言うよ、喜びなさい、喜びなさい、喜びなさい」って語っているんだなぁって強く感じました。


愚痴ったり、自分を責めたり、思い煩うんじゃなく。。。

文句言ったり、愚痴ったり、状況を愚痴ったり、自分を責めるんじゃなく、それこそ思い煩うんでもなく、喜んでいたいですね。

それはバラエティ番組を見たりする喜びとは次元が違います。

たとえ状況が最悪であっても喜んでいられる喜び。

それは私たちの内におられるイエス様にある喜び、聖霊様が私たちの内に、すべての理解を超えた神の平安、あらゆる人知を超えた神の平和で私たちを満たす喜びです。


明日も私たちのうちにいますイエス様を味わい、聖霊様に満たされ、導かれ、人知を超えた神様の平和で満たしていただきながら歩めますように


いつも喜んでいましょうね。

聖霊様と愛の交わりを持ちながら。。。

じゃぁね                   

 
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キリストの愛を込めて。。

パウロの祈り

こんにちわ

今週も無事終わりました。
主よ、感謝します


今、新約聖書のピリピ人への手紙を味わってます。

でね、味わっている中で、パウロのピリピの教会への祈りがひしひしと伝わってきました。

で、1章9節には、パウロのピリピの教会の人たちへの祈りが書かれています。

私は、こう祈ります。
あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。
そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように。
ピリピ1:9~11

この祈り、パウロのピリピの人たちへの祈りなんだけど、でもね、彼らは私たちと同じ異邦人クリスチャンであり、時空を越えて、今生きている21世紀の私たちへの祈りにも直結するなって感じるんです。


深い知識とあらゆる洞察力による愛


あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、
クリスチャンの愛って何かが、このみことばから伝わってきます。

それは、愛はただ感情的なもんじゃないっていうこと。

「深い知識とあらゆる洞察を身に着けて」って、これ、愛は知的であり、洞察力が必要だっていうことですよね。

この訳は聖書協会共同訳聖書からの抜粋なんですが、新改訳聖書では「知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり」ってあります。

愛には知識と識別力が必要であり、愛は知識と洞察力、そして識別力に裏付けられたものだっていうことです。

相手をキリストの愛で愛するには、やはりイエス様がどのようなお方であるのか、そしてお互いの成長のために必要な働きかけが必要ですよね。

そうやってキリストの愛で愛し合うこと、それがクリスチャンの愛の関係なんだと思います。


じゃぁ、その愛をどうやって得られるのか、やっぱみことばを味わい、学び、日々受け取ることからなんだと思います。

みことばに裏付けされた知識と洞察力、識別力による愛、これがとっても大事なんだと思います。


本当に重要なことの見分け

本当に重要なことを見分けることができますように
「本当に重要なこと」、「真にすぐれたもの」(新改訳)の見分け、これ、ものすごく重要なことです。

ピリピの町は偶像の町であり、異端的教えも満ちていました。

隙あれば、教会の中にも異端的教えが入ってきさえします。

これ、今の時代の日本のクリスチャンに対するメッセージでもありますよね。

だって、いろんな教えが満ちているし、それこそ異端的な教えがいっぱいあります。

やっかいなのは、聖書のみことばを教えている教会の中からも、怪しげな教えがされていることなんです。


私たちは本当に正しい識別力を身につけ、本当に重要な福音か、それとも聖書からはずれた偽りの教えかを見分けることがとっても重要です。


キリストの日に向けて

キリストの日には純粋で責められるところのない者
この「キリストの日」ってイエス様の再臨の日のことです。

その日、私たちはまさに純粋で責められるところのない者にされます。

そして、私たちは義の実に満たされたキリストの花嫁として、イエス様の前に立つことになるんです。

私たちはその時、完全な者に造り替えられ、栄光の体にされます。

すべては新しくされるんです。


今、この希望に向かって、それをモチベーションにして歩んでいるんです。


このパウロの祈り、味わいながら、「あっそっか!!!今大祭司としえイエス様は天でぼくたちのためにとりなし祈ってくださっているけど、まさにこの祈りをされているんだな」って思わされたんです。

そして、今もぼくたちをこの「キリストの日」に向けて、日々造り替えてくださっているんです。

それは試練などの苦しみを伴います。

そうやってぼくらが如何に無力かを教えられ、神様に全面的に頼る生き方へと変えられ、そして罪から離れさせられているんです。


イエス様の忍耐力すごいなぁってしみじみ思わされます。

そして、イエス様はぼくたちのことをまさに深い知識とあらゆる洞察力、識別力によって愛し続けておられるんですよね。


こうやってぼくらは主に愛され、祈られ、日々造り替えてくださっているんですよね。

ほんと、主に感謝としか言いようがないです。

ハレルヤ


明日は日曜に、多くの教会で礼拝がもたらされます。

心を込めて、このお方を愛し、礼拝を捧げることができますように

そして、明日、教会の中で、お互いに深い愛の関係が更に構築されますように


主に期待しつつ。。。

じゃぁね
 
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神の国の価値観に生きるか、サタンの国の価値観で生きるのか

こんにちわ

数日前のことですが、テレビのニュース番組の中で、ある施設に入っている人が殺害されたという事件の犯人へのインタビューがなされていました。

記者が犯人に面会し、どうしてこのようなことをしたのかを聞いたのです。

すると、犯人はこう答えました。

「二種類の人間がいて、それは役に立つ人間と役に立たない人間だ。役に立たない人間とは、意思疎通が出来ない人間のことで、そのような人は社会悪であり、安楽死させた方がよい。生かしておくことは税金のむだ遣いだ」

このような趣旨のことを言ったそうなんです。


ぼくは、テレビを見ながら、すごく考えさせられました。

この犯人の残虐性と心の狭さに悲しくなりました。

でも、同時にこの「役に立つ人間と役に立たない人間」、恐ろしい話ですが、実は日本社会全体の中に流れていることなんじゃないのかっていう気がしたんです。


本来は、そんな役に立つだとか立たないだとか、そんなことを考えたり発言すること自体異常なことです。

でも、どこかでそういう優越感が社会全体にあるんじゃないのかって思うんです。


勝ち組、負け組ってそうですよね。

そして、勝ち組になるため、一生懸命にがんばる。。。

これ、この犯人の発言と根底は同じだと思います。


人間はそうやって人と比較し、優越をつけたがる存在なのかもしれませんね。

そして実は、これがこの世のシステムで、この世はサタンの支配下にあるんです。

サタンという王の支配に属されている結果、そういう「役に立つ人間とか立たない人間」などという発想になってしまうんだと思うんです。


このニュースのことをここ数日、思い巡らしていたんですが、そういう中で、ある賛美が心に響いたんです。

それは「神の子」という賛美で、とってもシンプルな曲なんですが、でも内容はとっても深いです。




☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
何が出来ても 出来なくても
何を得ても 失っても

ただ愛されてる 天の父に
わたしは神の子
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○


新約聖書のガラテヤ人への手紙3章26節にこうあります。

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子です。

ほんと、そうなんですよね。

ぼくたちは、たとえ何も出来なかったとしても、そんなことは関係無く、神様に愛されているし、神の子なんです。

天のおとうさまの最高の愛が注がれているし、天のおとうさまはぼくたちを見る時、それこそ目に入れても痛くないほどの愛の目で見つめてくださっているんです。


人はいろんなことを言うかもしれません。

でも、神様は違います。

ぼくたちはこの世、つまりサタン王国に属しているんじゃなく、神様の王国に属し、そこからこの地上に派遣されている存在なんです。

今はとても神の子なんて言えないって感じるかもしれません。

でも、この地にありながら、ぼくたちはイエス様の似姿に日々変えられ、完成するまで決して見放されることはないんです。

いわば、今は工事中の状態です。


ぼくたちが日々どこに目を向けているのかで、自分のイメージ、自分の価値観が違ってきます。

目の前のことやこの世の価値観、世間体、人の意見などに耳を傾け、そこを見つめていると、それこそ「役に立つ、立たない」という価値観になってしまいます。

でも、ぼくたちがイエス様を通して父なる神様を見るとき、ぼくたちは神様に愛されている最高の存在であるということに気づくんです。


この世の常識や価値観や世間体ではなく、神の国の価値観の中で歩むとき、本当の意味の自由を楽しむことが出来るんだと思います。

ぼく自身、神の国の価値観の中に留まり、主にある自由を楽しみたいです。

主に信頼し、依り頼みながら。。。


そんなことを思い巡らしました。

主よ、感謝します。。

じゃぁね


 
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お久しぶりです

こんにちわ

ずいぶんおひさです

気づいてみたら、約2ヶ月半、放置状態でした。


書きたい書きたいとは思ってたんですが、時間が作れなくって~~~

こめんなさいです


ということで、2ヶ月半振りですが、再スタートしたいと思います。

でね、このブログなんですが、力を抜いて、思ってることとか、教えられたこととか、ゆるーーくゆるーーく書いていければなぁって思ってます。


さてさて、今年は元号が変わることもあり、10連休

この10日間、どこか出かけることもなく、気づいてみたら10日間みたいな、そんな感じでした。

一日はクリスチャンのセミナーに参加しましたけどね。


で、連休最後の日、、、って昨日なんですけどね、海に行きました。

10連休最後、そして令和最初に見た海<hr class=

夕日と海がめっちゃ綺麗で、江ノ島の先にはうっすらですが、富士山が見えました。

で、トンビがいい感じで写真に入りました。


やっぱ海、いいですよね。めっちゃ癒やされました。

海を見ながら、いろんなことを、祈りの内に思い巡らしました。


ほんと、主はすばらしいですね

その後、この海のすぐ側に日帰り温泉があり、そこに行きました。

GWで、料金がぐーんと上がってたんで迷ったんですが、まっいいかって思い、行きました。

中はさすがに写真撮れなかったですが(笑)、でもね、天然温泉で、その先にこの写真の風景がどーーーんと広がってるです。


そんなこんなで、癒やされました

ということで、ゆるゆるブログになると思いますが、これから一緒に喜び、祈り、感謝する時をブログを通して共有できたらなって思います。

そして、一緒に成長出来たらなぁって思ってます。

そんなこんなですが、これからよろしくお願いします。

じゃぁね

 
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たとえそうでなくても

こんにちわ

数日前、Twitterにアップしたんですが、最近「たとえそうでなくても」っていう賛美を聴いています。


この賛美を聴きながら、ほんとにそうだなぁってしみじみ思われるんです。

どうしてそうなんだろうって思ってしまうことってありますよね。
自分が思い描いていた人生と違っていたり、未だトンネルの中だったり。。。

時々思うんです。
あぁ、「どうしてこうなんだろう。あの時ちゃんとしていたら。。。」
「どうしてこんなに先延ばしにしちゃったんだろう。。。」
過去に戻れるならなぁ。。。みたいな、そんなことをふと心によぎることがあるんです。

でもね、過去にはもう戻れないんですよね。
そして、これもまた神様の御手の中でのことなんです。
主の許しの中で、今置かれているんです。

自分がどうであれ、主はすばらしい。主はよきお方です。
ハレルヤ

そして、神様はぜったいにぼくたちを見放さないです。
主の御手に信頼することなんです。


このことを思い巡らしている中で、一つのみことばが心に響きました。
それは、第二テモテ2章11~13節です。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
次のことばは真実です。
「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。
耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。
キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。
私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。
ご自分を否むことができないからである。」
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

そうなんですよね。私たちが真実じゃなくても、イエス様は常に真実なんです。
主はよきお方です。


☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
私は裸で母の胎の中から出て来た。
また裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。
ヨブ記1章21節
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

主は与え、主は取られる。
主はよいお方。常に真実なお方。
いつも主を賛美し、感謝する者でありたいです。

ハレルヤ、主よ、感謝します

じゃぁね


 
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喜びと聖霊に満たされるクリスチャンライフ

こんにちわ
もう2月も半ばを過ぎちゃったんですが、今年最初の投稿です

今日から新しい気持ちで書いていこうと思ってます。

使徒13章52節にこう書かれています。
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
これ、ピシデヤのアンテオケでパウロとバルナバが伝道した結果、多くの人たちが救われ、そこに教会が出来たんですが、パウロとバルナバが去っていった後、残された人たちの状況なんです。

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

弟子たち

「弟子たち」って彼らは呼ばれていました。

「弟子たち」ってよくないですか?
キリストの弟子です。
彼らは「弟子」って呼ばれていました。

ぼくたちもイエス様の弟子であり、イエス様に従う者なんです。
クリスチャンって、本来そういう存在なんですよね。

ぼくたちが自分はキリストの弟子だということを受け止めるとき、生活が変わってきます。
何よりも、イエス様を悲しませることはしたくなくなります。

ぼくらはキリストの弟子です。
キリストの弟子として、日々歩んでいきたいです。

喜びと聖霊に満たされる歩み

このキリストの弟子たちは、「喜びと聖霊に満たされていた」ってあります。

喜びに満ちる

これは福音がもたらされる実です。

パウロのメッセージに応答し、恵みと信仰によって救われたピシデヤのアンテオケの弟子たち。
福音を味わい、その喜びがたえず内側にあったのです。

これまで律法に従わなければいけないと、一生懸命努力し、神様に喜ばれるようがんばってきた彼ら。
でも、もうがんばんなくてもいいんです。

パウロは彼らに「神の恵みにとどまるように説得した」(使徒13:43)と勧めました。

私たちが救われるのって、「恵みと信仰」によります。
ほかの条件はいっさいありません。
そして救われた後も「恵みと信仰」によって成長するんです。

祝されたクリスチャンライフの鍵、それは「恵みと信仰」です。

でもせっかく恵みと信仰によって救われたのに、その後、律法の世界に戻ってしまう可能性が高いので、それで「神の恵みにとどまるように説得した」とあるんです。

ぼくらは自由にされたんです。
もう律法の世界とはおさらばです。
っていうか、本来、律法はイスラエルの民に与えられたもので、ぼくら異邦人信者には関係ないんです。
でもね、自家製の律法というか、「クリスチャンなんだからこれをやんなくちゃ駄目」って律法を自分たちで作っているのが現状です。

そういう中にあって、私たちが自由にされ、今やキリストの弟子として歩めることがわかればわかるほど、喜びが溢れてきます。

そして聖霊は私たちの内におられます。
その聖霊様が私たちを喜びに満たしてくださるんです。

でも、この喜び、「そうだ、喜ぶんだ」ってやっても失敗するだけです。
そうじゃなく、主はみことばを通して喜びを私たちに与えてくださるんです。

だから、みことばの学びはとってもとっても大事。
みことばを通して、聖霊様は私たちを主への喜びで満たしてくださるんです。

喜びと聖霊に満たされたクリスチャンライフ、お互いに今週一週間、喜びいっぱいのクリスチャンライフを送っていきましょうね。

祝福を祈ります。
キリストの愛を込めて。。。

じゃぁね

 
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自分をさばくことからの解放

こんにちわ


今週もあと1日。なんかホッとしています。

主よ、感謝します☆

 

今日は、ぼくがいつも励まされているみことばを分かち合います。


自分をさばくことからの解放

  

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

第一コリント4:3~5

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇で隠されたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときにに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

 「自分で自分をさばくことさえしません」、告白できているか?

パウロは「私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません」って言っています。


すごいですね~


私たちは果たして「私は自分で自分をさばくことさえしません」って告白してますでしょうか?

 


ぼくはこれまで逆のことをやってました。


つまり、自分で自分を罪に定め、裁いていたんです。


「あぁ、なんてちっぽけな存在なんだろう。失敗ばっかしちゃって。。。


他の人はちゃんと出来てるのに、自分はすべてが中途半端だ。。。


こんなんじゃダメだ。俺はダメだ。。。


あぁ、消えてしまいたい」


そんな風に心の中でつぶやいてしまっていました。


 

誰かに何かを言われるとすぐ傷つくし、落ち込むし。。。

なんて弱っちいんだろう。。。


そんな思いが心におも~~~くありました。


 

パウロの自分をさばかない秘訣

でもね、この箇所を味わうと、そんな自分の思いって間違ってたんだなって感じるんです。


パウロが自分を裁かないのは、彼のメンタルが鉄のように強いからとか、そんなことじゃありません。


そうじゃなくて、裁くのはイエス様だけだっていうことを理解しているからなんです。


4節で「私をさばく方は主です」って言ってますよね。


 

クリスチャンの位置的立場

私たちはイエス様が十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえり、今も生きておられるお方と信じ受け入れ、信頼したとき、罪が完全に赦され、罪の奴隷から救い出され、自由にされました。


そして、私たちは今、神の子とされています。


もはやクリスチャンは罪に裁かれることはありません。


 

でも私たちは、自分の弱さから罪を犯してしまうこと、失敗しちゃうことありますよね。


そんな時はどうすればいいのか?


その答えは聖書に書かれています。「霊的119」と言われている箇所です。


 

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

第一ヨハネ1:9(ヨハネ119)

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

 私たちが罪を告白するなら、その罪を赦し、不義からきよめてくださるんです。


告白するって、「こんなことをしました」って神様に報告するということじゃないです。


罪を認め、その罪から方向転換するのです。


 

私たちはみんな弱さを抱えています。


でも失敗しても、この「霊的119」を適用するなら、罪が赦されるんです。


 

だから、私たちを罪に定めることなど出来ないんです。


そして、私たちを裁くのは人間じゃありません。


誰であっても、私たちを裁くことなど出来ないし、赦されません。


裁くのはイエス様だけです。


 

私たちの位置的立場を理解し、そこに立つとき、パウロの告白、「私は自分で自分をさばくことさえしません」って言えるんです。


 

自分をさばくことからの解放

じゃぁもう完璧に大丈夫、いつもこの告白をしているって言えるかっていうと、未だ落ち込むことはあります。


でも、そのたんびにこのパウロの告白を思い出し、自分の位置的立場を思い巡らすんです。


そして、自分の内面からイエス様に視線を移し、イエス様を見上げるようにしています。


そうやって解放されてきています。


 

「私は自分で自分をさばくことさえしません」


お互いに、こうやって自分を裁くことから自由にされていきましょうね。


そうやってキリストの似姿に変えられ、何よりもイエス様がお喜びになられます。

ハレルヤ☆

 

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。


じゃぁね

 

 
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イエス様の祝福が豊かにありますように。
キリストの愛を込めて。。

弱さのうちに完全に現れるイエス様の力

こんにちわ


今日も無事一日が終わりました。ふぅ~

主よ、感謝します。

 

今日もみことばの分かち合い、しますね。

っていうか、やっぱみことばを分かち合えること、めっちゃ嬉しいんです。


だってね、みことばに力ありますもんね。


 

弱さを通して働かれるイエス様の力

  

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

第二コリント12:7~~9

その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。

この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

肉体のとげって何?

 パウロは、「肉体のとげ」が与えられました。

そのとげは何かはわかんないです。


目の病気だとか言う人もいますが、実際はわかんないというのが正直なとこです。


でもね、わかんないっていうのは正解で、神様はあえて隠されているんじゃないのかなって思うんです。


っていうのは、例えば目の病気だとすると、目の病気じゃない人にとっては人ごとになっちゃいますよね。


それが何のとげなのか隠されてわかんないことで、自分のこととして考えることが出来るんです。


だから、すべての人にとって、パウロの経験したことは自分に置き換えることが出来ることであり、自分にとっても重要なことなんだと思います。


 

癒やされないとげ

パウロは三回も「主よ、このとげを取ってください!」って祈り願っています。


でも、イエス様はあえてそのとげをパウロから取り除きませんでした。


つまり、パウロはこの病に関しては癒やされなかったんです。


 

時々、病と信仰とを結びつけ、罪があるから癒やされない、だから徹底的に悔い改めることで癒やされるんだっていうことを聞くことがあります。


でも、もしそうだとすると、パウロは不信仰者っていうとんでもない結論になっちゃいますね。

病は罪の結果ではないです。


イエス様も「その人を通して神様の栄光が現れるためにあるんだよ」って言われましたよね。

ほんと、この考えは注意が必要だと思います。


 

病を通して働く神様の恵み

パウロは三度も「主よ、とげを取ってください」って祈りましたが、それに対してイエス様はあえてパウロを癒やすことをせず、こう言われました。


「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」


 

パウロはこのとげを通して、弱さの中に働くイエス様の力を経験しました。


もともとはエリート中のエリートで、プライドでいっぱい、自分は神様のために正しいことをやっているんだ!!!っていう思いでいっぱいでした。


それがあの使徒たちへの攻撃に繋がってたんです。


そのパウロが、プライドをグサグサに引きちぎられ、今や病の中で苦しみ、その中で神様の助けと力を経験したんです。


 

パウロは11章30節でこう言っています。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

 ぼくはこのみことばが大好きで、いつも励まされています。


そうなんですよね、弱さって恵みなんですよね。

弱さがあるから初めて神様の愛、神様の力を経験出来るんです。

 


今も感じます。あれが出来ればなぁ~っとか、こんなんじゃダメだとか。。。


そのたんびに落ち込むし、時にため息も出ます。


でもね、同時に感じるんです。そんな弱くてどうしようもない自分を通して、神様は働かれ、ご自身の栄光を現されるんだなってね。

 

これが完璧で、「出来る男」で、サクセスストーリーを歩んでいたら、きっと神様に頼るとか、依り頼むとか出来ないんだろうなって思うんです。


そして自分の努力で道を切り開いていってね。



 

でもね、弱くて、自分の力の無さがわかっているから、神様に信頼するしかないんです。


こんな自分を通して神様は働かれる。凄いですよね。


弱いからこそ、イエス様の御手の中にいることが出来るんです。


そして、希望を持つことが、未だ出来てるんです。


 

弱いからこそ強い

ぼくらは弱い。でもぼくらの内にいますイエス様は強い。


ぼくらの内にはイエス様がおられるんです。

 

12章10節でこうパウロは言っています。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときこそ、私は強いからです。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

 

「私が弱いときこそ、私は強い」


まさにそうですよね。イエス様に信頼し、依り頼んでいるパウロ。


彼は弱さの中に働くイエス様を日々自分のとげを通して経験しているんです。


 

ぼくらも、自分の弱さや悲しくなるような現状を嘆いたり、落ち込んだりするんじゃなく、そのただ中で働かれるイエス様に信頼し、イエス様を見上げましょうね。

 

これはぼく自身への言葉でもあるんです。


だって、ぼくは傷つきやすいし、すぐ落ち込むし、自分の弱さをいっぱい知っています。また、今の現状や将来への不安もいっぱいあります。


でもそんなぼくを通してイエス様は働かれるんです。


そして、イエス様は絶対に見捨てるお方じゃないし、すべての必要はイエス様の内にあります。


だから、安心してイエス様の愛に満ちた御手の中で、イエス様がぼくを通して御業をなしてくださるよう、依り頼み、お任せするんです。


これを落ち込んだ時、思うようにしています。


 

弱さのうちに完全に現れるイエス様に明日も信頼し、一歩一歩前進していきます。

ハレルヤ、主よ感謝します

 

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。


じゃぁね

 

 
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キリストの愛を込めて。。

イエス様がお生まれになった恵み

こんにちわ

前回、クリスマスについてのことを書いたんですが、そのことをぎゅっと詰まった賛美があるので、紹介しますね。

これです。



ほんと、そうなんですよね。

イエス様は神です。そのお方が、神であることを捨てて、天の王座から、罪にまみれた地に降りて来てくださった、これがクリスマスです。

でもこれ以上の恵みってないですよね。

私たちの罪を全部背負い、私たちの罪を取り除くために、十字架上で死なれるためにお生まれになったお方。



ぼく自身、もしイエス様がおられなかったら、生かされている喜びが今あるだろうかって考えると、なかったと思います。

だって、どうしようもないぼくのためにこの地に来られ、十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目に復活されたイエス様、その恵みによって今のぼくがあるんですからね。



今、本当に生かされている恵み、喜びがあります。

それは何かうまくいったからという、そういう喜びとは質が違います。

たとえ苦しくても、試練に遭っても、失敗してしまっても、状況にかかわらず、そのど真ん中で喜ぶ、そういう喜びです。

それは試練が好きだとか、そういうことじゃないですよ(笑)

そうじゃなくて、どんな状況であっても、ぼくの内にイエス様がおられるからです。

そして、イエス様の十字架の死と復活により、完全に自由にされたからです。



この賛美の中に「主が生まれていなかったら、喜びがあるだろうか?」っていうフレーズがありますが、本当にそうだなって実感します。

それほど、ぼくにとってイエス様は特別だし、すべてです。

イエス様がすべてを捨てて、罪にまみれた地にお生まれになった。これ以上の謙遜はないし、恵みはないです。

そして、ぼくはこのイエス様を心から愛しています。

イエス様はぼくのすべてであり、ぼくはイエス様のものです。

ハレルヤ



今年のクリスマス、この恵みを味わい、感謝と喜びにあふれるクリスマスでありたいですね。

イエス様がお生まれになった、それは特別なことなんですから。。。

そして、多くの人がこの恵みのプレゼントを受け取って欲しい、それが切なる願いです。


祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

じゃぁね

 
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クリスマスの恵み

こんにちわ

今日は12月3日。ついに12月突入です
今年もあと一ヶ月を切りました。

そしてクリスマスのシーズンです。
教会でもアドベントで、クリスマスがまもなくだって実感されていることと思います。

Twitterでそのことをツイートしました。


クリスマスの恵み

今月に入り、クリスマスについて思い巡らしています。

クリスマスって何だろう。。。

クリスマスって何だろうって思います。
クリスマスは、ハッピーバースデーイエス様~♪ってお祝いするというよりも、私たちのためにこの地に誕生してくださったお方を感謝し、そして救われた恵みを味わう日であり、月であるんだと思います。

イエス様は約2000年前、この地に誕生されました。
もちろん12月25日がイエス様の誕生日というわけではありません。

でもこの12月にクリスマスをお祝いするのは、この日本でも12月25日がクリスマスって認識されているから、この月にクリスマスをお祝いすることは、伝道のためにもいいと個人的には思ってます。

町はクリスマス一色。お店に入るとクリスマスソングが流れていて、不思議な感覚になります。
もちろん、イエス様不在のクリスマスなんですけどね。。。
でも、同時に福音に対して心を開く時もこの時期なんですよね。

そして、クリスチャンにとっても、1年の最後、イエス様がこの地に来られたというのはどういうことなんだろうかと思い巡らし、その恵みを味わうとても大切な時なんだと思います。

イエス様の犠牲

クリスマス。。。
イエス様がこの地に誕生されたのは、決して当たり前のことじゃないです。

だってね、イエス様はこの地が誕生する前からおられ、この地をお創りになったお方。

ヨハネの福音書1章にはこうあります。

ヨハネ1:1~3
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

ここにある「ことば」はイエス様のこと。
イエス様は神様です。
そしてすべてのものは、この方、つまりエス様によってお造りになられました。

その神であるお方がこの地上に来られたんです。
しかも、王女様から生まれたのではなく、マリアという無名の田舎の娘から生まれました。

誕生した場所も、王室であったり、豪華な部屋で、万全の体制で綺麗な状態で出産されたのではなく、ガリラヤという田舎で、衛生的にもお世辞にも良いとは言えない家畜小屋でです。

しかも、イエス様は家畜の餌を入れる飼い葉桶の中に寝かされました。
そして布に赤ちゃんのイエス様は巻かれましたが、その巻かれた布は、死体を巻くための布です。

これがイエス様の誕生です。
神である方のあるべき誕生じゃないし、かけ離れていますよね。

イエス様は神であるお方。
その神としての権威も、栄光も、力もすべて捨てて、赤ちゃんという人の助けが無いと生きられない、そのような形でこの地に来られたのです。

すべての捨てて人の子として誕生されたイエス様。
ここにイエス様のへりくだりがありますね。

そして、イエス様が誕生されたのは、十字架にかかるため。
私たちの罪のため、犠牲の捧げ物になるために、ご自身の栄光も権威も神であることもすべて捨てて、この地にお生まれになったイエス様。

これ以上の恵みはないですよね。

クリスマスのお祝いの仕方

クリスマスって、私のためにすべてを捨ててこの地にお生まれになったイエス様を味わい、感謝する時です。
イエス様の誕生を通して、十字架と復活の恵みを味わう時、これがクリスマスです。

だからね、美味しいものを食べるのもパーティするのも、もちろんいいんですが、でもこれはメインじゃないです。
大切なのは、世のクリスマスの騒ぎに流されるんじゃなく、静まり、私たちが救われるために、どんなに大きな犠牲が払われたのか、その恵みを味わう時、これがクリスマスなんです。

クリスマス、イエス様を礼拝しよう!

今年のクリスマス。周りに流されるんじゃなく、イエス様の犠牲に、そして自分が救われた恵みを味わい、感謝し、イエス様を礼拝する時としたいですね。

そんなクリスマス、ご一緒に味わい、礼拝しましょう!


祝福を祈ります。
キリストの愛を込めて。。。。

じゃぁね

 
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キリストの愛を込めて。。

ねたみに満たされるか、聖霊に満たされるか。。。

こんにちわ
今日も無事に一日が終わりました。

ふぅ

こうやってブログを再スタートし、少しずつでも分かち合えること、とっても嬉しいです。
そして、やっぱみことばを分かち合えること、それが嬉しいんです。


☆★○☆★○☆★○☆★○☆★
使徒5:17~18
そこで、大祭司とその仲間たち、すなわちサドカイ派の者たちはみな、ねたみに燃えて立ち上がり、
使徒たちに手をかけて捕らえ、彼らを公の留置場に入れた。
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★

イエス様が十字架にかかられ、お墓に葬られ、三日目によみがえられ、弟子たちの目の前で雲に乗って天に挙げられた後、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降りました。

この日から教会がスタートしたんですが、弟子たちは聖霊のバプテスマを受けてから、人が変わったように大胆に福音を語るようになったんです。

だってね、それまで臆病で、イエス様が捕らえられた後、みんな逃げるし、ペテロは3回もイエス様を知らないって裏切ったんです。

その男たちが、聖霊のバプテスマを受けてから、聖霊によって力が与えられ、大胆になり、そして彼らの働きは進展していきました。


使徒5章12~14節にはこう記されています。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★
さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。
ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。
そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。
そしてついには、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせて、ペテロが通りかかるときには、せめてその影だけでも、病人のだれかにかかるようにするほどになった。
また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た。その人々はみな癒やされた。
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★

使徒たちを通して、多くの奇跡がなされ、しまいにはせめてペテロの陰にかかればって、ペテロの影に病人が当たるようにするほどでした。

誤解しないでくださいね。ペテロの影に何か力があるとか、そんなことは全く無いですし、このことで何かが起こったということも記されていません。
その人たちの期待感から、ペテロに触れることは出来なくても、せめて影だけにでも~っていう思いから出たことなんです。

で、そんなこんなで、主を信じる人たちは増え、男女共に主を信じるユダヤ人の人たちが大勢になりました。


で、本来ならみんなが喜ぶ筈です。

ところがそれを苦々しく思った人がいるんです。
その人たちは、なんと大祭司とサドカイ派の人たちだったんです。

本来なら、聖書の専門家であり、誰よりも約束されたメシアを信じる人が増えることを喜ぶ筈の人たちが、怒りと苦々しさでいっぱいになったんです。

これが上のみことば、5章17~18節です。


17節に「ねたみに燃え」ってありますね。

これは「ねたみに燃え」というより、「ねたみに満たされ」という意味です。
ねたみ充満状態です。

彼らは自分たちの宗教的特権を守ることでいっぱいだったし、サドカイ派の人たちはイエス様の復活を否定していたので、イエス様の復活のメッセージに反発していたんです。

それで、使徒たちへのねたみで満たされ、使徒たちを捕らえ、神殿の外にある公の留置場に入れたんです。



この箇所を味わいながら、考えちゃったんです。

方や使徒たちは聖霊に満たされ、大胆に福音を語りました。

方やねたみや嫉妬に満たされて、ユダヤ人のメシアであるイエス様の福音を否定し、使徒たちを捕らえたんです。


「満たされる」って、人格的支配のことです。

私たちは何に支配されているかで、生き方が変わって来ます。

怒りや嫉みに支配されるか、聖霊様に支配されるかで、大きく変わって来ます。


ほんと、ぼくたちは常に聖霊様に支配され、導かれる歩みをしていきたいですね。

みことばを日々味わい、聖霊様を通して語られるみことばにアーメンと応答し、主に導かれて一歩一歩歩んでいきたいです。


明日も聖霊の導きに応答する一日となりますように

じゃぁね

 
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